本学外国語学部中国語学科教員として赴任したのは昭和62(1987)年4月1日でした。柏祐賢学長より励ましの言葉と同時に辞令を受け取ったのは午前10時頃だったと思いますが、まるで昨日のことのように想い出すことができます。その前年度まで奉職していました鹿児島経済大学(現在の鹿児島国際大学)在職の7年間を併せた37年間は、まさに”光陰矢の如く”過ぎ去り、自らも”百代の過客”に連なって教員生活を収束することになります。
この間世の中は大きく変わりました。特に大きく変わったものにパソコンとインターネット、それにスマホなど、ものごとを伝える技術の革新と、それに伴う媒体の普及、ひいては人々の価値判断基準の変化などがあります。語学教育にフォーカスすれば、メディアの劇的な変化と発展により、地球の向こう側の事象を発信する動・静画や音声であっても、瞬時に視聴覚を通して捉えることが出来るようになっています。特に教材の入手・加工という点では劇的に変化しているのです。アクティブラーニングが盛んに唱えられている要因の一つもこの点に依るところが大きいでしょう。
一方で物心ついた時からスマホが普及していた現役学生世代とは異なり、老齢教員の技術革新に適応する能力はますます鈍くなり、教材の選択と準備という点では逼迫するものが増えてきました。少し古い教科書が載せる「タイプライター」「テープレコーダー」などの死語を受講生に説明する苦労などはネット環境利用により容易に解決しますが、”コミュニケーション能力”を磨き、”活きた語学を運用する能力”を身につけることのできる授業展開については、克服すべき点がいよいよ増えているように思います。外山滋比古氏の仰る「不幸な逆説*」ではありませんが、或いは、小学校から大学までの日本の教育機関が内包している矛盾が、より加速度的に顕在化していくのかもしれません。と、かつて読んで学んだ外山氏のご主張を反芻しながら研究室内の整理を進めている最中に、『媧皇峪 WāHuángYù』という語劇のパンフをたまたま見つけました。中嶋みどり先生の「上演によせて」、中国語研究会会長I氏の「挨拶」、O氏の「監督所感」につづき「あらすじ」、「マメちしき」、「人物相関図」、各Cast(22名)の紹介、「うらばなし」、「Staff-各リーダーからひとこと-」、そして「制作者のコメント」総計20頁から成る小冊子です。裏表紙には「京都産業大学、中国語研究会、第16回、語劇発表会、平成8年12月6日(金)、於京都会館別館」とあります。思わずパンフを手に取った私は、出演者と観客が一体となって盛り上げて実現していた当日の上演成功を目の当たりに出来た幸運を、はっきり思い出すことが出来ました。
人は単独では生きていけません。他者と織りなしてできる「自己の相対化」を通してはじめて自分を確認し、自分を認めることが出来ます。「この語劇は、何かの縁があって集まった私たちが一つの目標に向かって一生懸命になることでできる良い機会を与えてくれました。練習をしたり、準備をする過程でたくさんのことが得られました。」と綴る会長I氏の「挨拶文」は、まさに、単独では生きていけない人間が、他者との共同作業の中で醸し出す、生きていく上での智恵と教養を培うことの大切さを参加者がすでに知っていたこと、を発信しています。
中国語学科の学生を母胎とする「中国研究会」の創設は古く、昭和50(1975)年には盛んに活動していたと聞いています。研究心が熱を帯びたあまり、3号館の窓から赤旗を掲げるなど、物議をかもしていたことがあったそうですが、「青春のほとばしり」だったのでしょう。私の赴任後のことですが、毎年、琵琶湖青年の家で新入生を迎え定例的な発音合宿を実施していました。語劇、弁論・暗唱大会などの活動も学生が主体的に取り組むという、大きな特色を持っていました。機関雑誌『我們』第一号は平成5(1993)年に発刊されたと推定されています。第三号は平成7(1995)年3月に、第五号は平成9(1997)年3月にそれぞれ刊行されています。
この時代と前後して、留学制度が未だ整備されていない状況下ではありましたが、北京、大連、上海、広州、台北、香港などに留学し、卒業後も語学を積極的に生かして活躍し始めた卒業生は多数に及んでいました。なかには、在学中には中国語授業が「イヤでイヤで」たまらなかった卒業生が、某先端企業の上海駐在員として北京語と上海語を自在に操りつつバリバリ仕事をしていた事例に遭遇したこともあります。いままさに社会の各分野で精力的に活躍しているのは、この世代の卒業生です。そのことに想いを馳せるとき、たまたま一時期を一緒に過ごすことの出来た幸運に感謝すると同時に、元気なお姿を祈らずには居られません。
*外山滋比古『思考の整理学』筑摩書房、1986年。
自分では意識していませんでしたが、これが私にはチャンスを掴むための準備でした。彼らのおかげで、経済実験室の建設が可能になり、経済実験室はいまも研究教育の拠点として機能しています。
多くの若者たちが実験室で育ったのは嬉しいですが、自分自身の研究活動を振り返ると後悔があります。目先の成果にとらわれず、もっと重要で基礎的な課題に挑むべきだったと悔やまれます。もちろん挑戦しても成功したとは限りませんが、挑戦しなかった後悔は残ります。若者にはこのような後悔のない人生を送ってほしいと思います。
さて、若くない人は何をすべきでしょうか。若いときのまま頑張るのもよいでしょうが、若いときにはできなかったことをするのもよいと思います。
自分の人生を振り返ると、幸運だったと思います。若い頃の夢で叶わなかったことは自分の能力と努力が足りなかったからで、家が貧乏で勉強したくてもできなかったことも、戦争や災害のために人生計画を狂わされることもありませんでした。高度成長期の中流家庭に育った私は、時代とともに生活が自由で豊かになるのは(多少の波はあっても)当然と思っていました。けれども、そうとも限らないことを痛感させることが続いています。
自分と家族の生活のために、若者には引き受けにくいリスクがあります。それを若くない人たちが引き受けてもよいでしょう。自分勝手な冒険は社会に迷惑でしょうが、社会のために若者より大胆であることは可能で、そうであってよいと思います。