ちょうど今から30年前、私は京都産業大学教養部のドイツ語教員として着任いたしました。私と京都産業大学を結びつけてくれたものがドイツ語だったわけです。
そもそも私がドイツ語を始めたきっかけは、ドイツ・オーストリアを中心とするクラシック音楽への興味でした。その後ドイツ文学への関心も加わり、高校時代には独学でドイツ語を始めました。いろいろ迷った挙句、大学ではドイツ文学を専攻、将来の見通しについては深く考えず、そのまま大学院に進みました。けれども、ドイツ留学から帰国後、就職では大変苦労することになりました。東京での非常勤時代は、専門のドイツ文学を研究する暇もなく、しばしば心がくじけそうになりました。もうこの世界に別れを告げようかと悩んでいた矢先、京都産業大学での採用が内定しました。初めて北大路発のバスに乗って面接に向かった日のことが、鴨川の美しい風景とともに今でも鮮やかに脳裏に蘇ってきます。
最初に着任した教養部がしばらくして解体されたのち、外国語教育研究センター所属を経て、外国語学部の教員となりました。外国語学部では本来の専門であるドイツ文学に関する講義や演習を担当する機会を持つようになりましたが、数の上からすれば、外国語学部も含め、圧倒的に多くの学生さんとはドイツ語文法の授業を通じて接してきました。大きな教室、小さな教室での授業、そこで出会ったたくさんの顔、すべては時の止まったまま私の記憶の襞に刻み込まれています。
私が大学生だったときには一般教養の第2外国語として学べる言語は限られていました。ドイツ語以外にイタリア語もやりたかったものの、単位として受講できる科目はありませんでした。京都産業大学では多様な外国語科目が提供されており、本当に恵まれています。機械翻訳が進む現在、特に英語は近い将来ほぼ問題なく機械で代用できる時代になるでしょうが、そういう実用性とは別に、新しい外国語を学ぶことは、多大な内面の変化をもたらしてくれます。ゲーテは「外国語を知らぬものは、母国語についても何も知らない」と言いましたが、私自身、これまでにドイツ語、ドイツ語圏の文化を学ぶことによって得られたものについて考え、その大きさにあらためて驚いています。とりわけ、京都産業大学でのこの30年間、その間に出会った先生方、多くの学生さんとの思い出は、ドイツ語が与えてくれたかけがえのない宝物です。
私をドイツ文学の世界へと誘ってくれたヘルマン・ヘッセは、晩年庭仕事をしながら、深い思索に満ちた素晴らしいエッセイを残しました。ヘッセには遠く及びませんが、私も余暇に庭仕事をしながら、いろいろなことを考えます。水や肥料は多すぎても少なすぎても、いい結果は得られません。大きく育つかなと期待していたものがうまくいかず、予想しなかったものが大きく伸びることもあります。ちょっと目を離すと、あっというまに庭は荒れ果ててしまいます。新芽を伸ばすために古くなった枝を切るとき、ああ、このような更新がなければ庭は活力を失ってしまうのだなあと、寂寥感に襲われることがしばしばです。けれどもそれなしには若返りはありません。これからも京都産業大学という大きな園に、健やかな若木が育ち、その周りにたくさんの美しい花が咲き続けることを願ってやみません。
30年間への「ありがとう」とともに、ヘッセの詩を引用してお別れいたします。
我々老いし者は生垣に実る果樹を採り入れながら夏の太陽で日焼けした手を温める。
まだ日の光は微笑み、まだ終わりには至っていないまだ今日という日、ここという場が我々を支え慰めてくれるのだ。