定年退職まで、あと半年です。昭和56(1981)年に教壇に立ち始めました。ほぼ40年になります。今でも週に6から8コマの講義を担当し、柴犬との朝、晩の散歩を日課にしています。猫も加わり、ひっかき傷が絶えません。退職まであと3年となった頃、「あと、1000日か、比叡山で行われる修行(千日回峰行)だな」、と思い今日に至っています。研究室は今も4号館2階の108研究室です。大学の建物はほとんど新しくなりました。でも4号館と大教室棟は昔日のままです。
新潟県の田舎に生まれ、大学院博士課程を経て、京都産業大学法学部の教員になり、商法、会社法、企業と法、ゼミ、商法特殊講義(証券取引法・商品先物取引法)や金融商品取引法など、幅広く法律の講義を担当してきました。「学びつつ教え、教えつつ学ぶ」ことの実践でした。
ゼミ生の中にはもう60歳台という人もいるでしょう。年賀状やFacebookなどで今でも近況を知ります。青森県出身のゼミ生が持参したリンゴをもらったこともありました。最高裁の書記官から裁判官となったゼミ生もいます。ゼミのコンパをあちこちで開いたことも数え切れません。2・3・4年生100人くらいでの合同コンパもあったかと思います。そう円山公園内のお店でした。ゼミ生の結婚式にも何度か招かれました。ゼミの同窓会を開いたこともありました。ゼミ生と一緒によく温泉やスキー旅行にも行きました。私の留学中は、友人が私のゼミ生をつれてスキー旅行に行ってくれました。大学院でも講義を担当しました。税理士資格を得た卒業生も多数います。博士号の審査にも関わりました。ロー・スクールでも講義しました。弁護士資格を得た修了生からたよりをもらいました。皆さん、社会のそれぞれの場で活躍していることと思います。
3人のわが子供の成長には気づきませんでした。家人に、「3人の子の小さい頃の記憶がないのだが、私は何をしていた?」と聞きます。家人は「研究と講義に一生懸命でした」と応えます。振り返れば、研究と講義に明け暮れた忙しい40年だったのでしょう。最近は、定期的にお医者さんの診察を受け、身体のあちこちの不具合を診てもらっています。この40年の中で、1992年9月から1993年9月の1年間のフランスの大学への在外研修は想い出深い経験でした。萩原朔太郎の「ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりにも遠し、せめては新しき背広をきて、気ままに旅にいでてみん。…」(純情小曲集 愛憐詩篇1925年)との詩の一節が心に残っていたのか、証券取引研究の本場の米国ではなく、フランス商法・会社法・証券取引規制の研究でフランスに行くことにしました。フランスへの出発に朝早くから自宅近くにまで見送りに来てくれたゼミ生がいました。親しく可愛がっていただいた先輩の諸先生方が伊丹空港にまで、朝早いのに見送りにきてくれました。妻と3人の子供を連れ、荷物をたくさん抱えた旅姿であって、さぞかし驚かれたことでしょう。パリの美しさ、南仏のエクス・アン・プロヴァンスの陽光のまぶしさを今でも懐かしく想い返します。在仏中に結婚することになったゼミ生にサン・ヴィクトワール山の絵葉書をお祝いに送ったりもしました。フランスから帰国してから、研究、講義の合間を見つけて、研究を名目にあちこちの国を旅しました。
あと半年の教師生活を終えたら、「家守(いえもり)」(家の番をすること、または、その人)として暮らし、「心穏やかに」過ごせたらいいなと思っています。卒業生の皆様のご健康をお祈りします。
では、Au revoir.