この京都産業大学に、京都大学文学部助手から、 産大の世界問題研究所の助教授として赴任したのは、 平成2年4月でした。当初は、外国語学部にて「ドイツ文化論」や「卒論担当」を受け持ちました。共通科目としては「宗教思想」(宗教学入門)を、文化学部に赴任してからは、「ヨーロッパ思想史」や「日本思想史」、「文化学概論」などを担当しています。
毎年の入学時に新入生に対して、「大学の勉強」(studium)の本来の意味は、高校までの受験勉強と質的に異なる「好きなことに没頭・熱中する経験」であり、西田幾多郎の『善の研究』の「知と愛」のテキストを見てもらい、「無我夢中」の「純粋経験」の意義を紹介します。せっかく大学に入学した以上は、この「無我夢中」の〈studium〉の経験に少しでも触れてほしいことをフレッシュな新入生たちに訴えます。入学した学生のうち、他の大学を受験したが合格できずに仕方なく産大へ来たのだという「受験優等生」たちもいますが、先ず受験失敗のトラウマを引きずっているような学生に対して、ヨーロッパ12世紀の大学の起源や理念を述べ、小さな自分の先入観(偏差値)等の枠を打破して、新たな世界へと踏み出すことの凄さ(「大学は世界に開かれている」)を力説します。
「哲学」や「宗教学」を学ぶ学生にとって、受験的なレベルの優劣は問題にならないことを実感しています。 産大へ赴任してからも、京大へ非常勤講師として行き、 学部から院生まで一緒に見るので、比較することもあるのですが、京大の院生は「学問の重さ」(アカデミズム)に抑圧されて元気が足りませんが、産大の吾がゼミの学生諸君は、まだ学問の世界に入る以前の「直観」=「直感」に溢れて、堂々と「独創的(?)」な見解を語ります。この「初心」(Beginners-Mind)こそが「学問のいのち」にも通じるのではないかと愚考します。「演習」(Seminar)ゼミナールは、ラテン語なら〈semen〉「種」に由来します。つまり「ゼミ」とは、学生の各自が自分自身の「種」を蒔き、自分自身の「花」を咲かせ、「実」を獲得することです。「卒業論文」はまさしく「自身の実」であり、卒論を書くという作品を作ることによって「自己自身が作られる」という不思議な奇跡でもあります。
各自の卒論が完成すると、4回生のゼミ生全員で、「卒論試問と討議」の会を、一日がかりでやり、夕方には「卒論完成」の祝杯をあげます。各自のテーマはひとりひとりが決めるのですが、そこでテーマどうしの呼応など不思議なコンステレーション(縁起)があり、忘れられない討議の場になります。またその後、数日してから、4回生の卒論発表・合宿を、産大の施設、琵琶湖畔の「セミナーハウス」にて、3回生のゼミ生やゼミ希望の新3回生も含めてやることにしています。そこで卒論で苦労した4回生が、後輩の3回生達に極めて素晴らしいアドバイスをしてくれます。 先生から学生への影響よりも、先輩から後輩への助言のほうが、よい効果をもたらすようです。合宿の一番の楽しみの夕食のバーべキュ―をやった折、卒業したゼミの先輩も数人参加しての「焼肉」の宴でしたが、24名の参加者の数とテーブルの数の6とを混同した手違いがあり、全くの「肉」不足でした。主人公である4回生が、肉を焼き、先ず先輩と後輩達に一切れずつ配り、自分達は「肉なしのタレ」のみをご飯にかけて食べていたこと、鮮やかに懐かしく想いだされて来ます。