2020年春をもちまして、本学を定年退職することになりました。1978年春に講師の辞令を頂いて以来、本学一筋に、42年間という長きにわたり勤務することができました。まことに幸せでした。まずはお世話になりました教職員の皆様に感謝を申し上げます。また私のような者を「先生」と呼んでくれた卒業生諸君にも感謝いたします。良き学生に恵まれたとつくづく思います。
着任時はまだ創設者・荒木俊馬先生がご存命でした。一度ご挨拶に伺いました。ほどなく急逝されました。私は近年、「本学建学の精神と法学部の使命」という論文を『産大法学』50周年記念号に書きました。「京都産業大学学術リポジトリ」から検索できます。高等教育を万人のものにして「真の日本人」を育成するという建学の精神が、いかに画期的なものであったか。今でも胸が熱くなります。
着任当時、私はまだ大学院出たての駆け出しでした。建学から10数年、定年制がしかれ、当初のご高齢教員が退かれる時機でした。法学部も続々と若手教員が赴任し、宮田豊学部長、三木新学部長、廣岡正久学部長の下で、法学部らしい法学部に成長しました。
私の初期のゼミの卒業生は、今ではもう還暦を過ぎたお年頃かと思います。当初はゼミ運営にも戸惑っていましたが、ある時から、ゼミ生とは徹底的に付き合うと心に決めました。徹底的に呑み会をし、話し込みました。卒業式には自宅に招待して祝いました。
その中から、今では京都市消防局の幹部になっている奥田浩喜君(1986年卒)のように、ゼミ生同士で結婚し、私が仲人を務めるといったケースも出てきました。ちなみにゼミ内結婚は数組あります。
80年代末には、バブル期だったこともあり、3年連続で海外ゼミ旅行に出かけました。私は1991年から92年にかけて、本学の海外研修員として、アメリカ西海岸のシアトルにあるワシントン大学に1年間滞在しました。この前後、ゼミ卒業生の中からも、今はシンガポール在住の野田浩司君(1987年卒)や、京都新聞記者の今川敢士君(1995年卒)のように、アメリカの大学院に留学する人も出てきました。
1990年代以降は、日本の大学は〈改革〉の時代を迎えます。墨谷葵学部長、清河雅孝学部長に続いて、2000年から04年まで、私自身が学部長を拝命することになりました。折からの司法制度改革に呼応し、本学も法科大学院を創設しました。残念ながら、時利あらず、永続させることはできませんでしたが、法学部成長のためには創設自体は不可避であったと今だに自問自答しております。
ゼミの2000年卒業生からは、ゼミ卒論集を製本し、卒業式の日に手渡すことにしました。その序文として、ゼミ生一人一人に私からのメッセージを記しました。読み返すと、今でも一人一人の姿をリアルに思い出します。ゼミはディベートをするゼミになりました。タテコンに始まる呑み会シリーズに加え、夏の松ノ浦セミナーハウスでの合宿、秋の神山祭での模擬店出店が恒例行事となり、入ゼミ競争率が法学部一のゼミになりました。
着任時28歳の独身青年だった私も、今では孫のいる70歳の腰の曲がった老人になりました。昨年は腰椎を骨折し、長期入院を余儀なくされ、授業を休んでしまいました。パーキンソン病も発症しております。退職後は、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という孔子の言葉を肝に銘じながら、日々を元気に生きてまいりたいと思っております。