京都産業大学同窓会

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「令和」改元特報の舞台裏

(※2019年9月発行の同窓会報の内容を転載しています)
所 功 名誉教授
法学部 日本法制文化史

 昭和十六(1941)年十二月に岐阜の山村で生まれた私は、小学六年の修学旅行で初めて訪れた京都に、ひそかな憧れを懐いてきた。名古屋大学の文学部で平安時代の政治文化史を専攻したのも、京都への強い思いからである。やがて「念ずれば花開く」(坂村眞民)ということか、昭和五十六(1981)年春、その夢が京都産業大学への赴任という形で実現した。
 それ以来、満三十一年、本学に専任教授として奉職する幸運に恵まれた(教養部に三年、法学部に十九年、日本文化研究所に九年)。その間、実に多くの先生・職員および学生たちと出会い、いろいろなことを教えられ励まされた。
 また、平成二十四(2012)年春の定年退職後も、共通教育や文化学部のリレー講義、日本文化研究所の研究嘱託、大学の評議員などを引き受け、さらに同窓会の会合などにも時々招かれ、楽しい交流が続いていることに感謝している。
 この三十数年間を振り返って、一番大きな想い出は「平成」と「令和」の改元特報に関わったことである。私は学部の卒論で「三善清行(みよしきよゆき)(849~918)」という文人政治家の伝記研究に取り組んだ時から、年号(元号)に関心をもってきた。文部省に教科書調査官として在職中の昭和五十二(1977)年『日本の年号』と題する概説書を著し、また同六十三(1988)年『年号の歴史−元号制度の史的研究』と題する論文集を出したことがある(共に雄山閣)。
 それが政府やマスコミなどの目にとまり、昭和五十四(1979)年『元号法』の成立に際して、裏方で少し手伝った。また十年後の「平成」改元の特別報道番組に解説を担当することになったのである。
 後者の実情について略述すると、昭和六十二(1987)年九月、昭和天皇(86歳)が癌の御手術をされた頃から、新元号の考案者と目される小川環樹博士(京大から本学の専任教授)を取材に来たテレビや新聞・雑誌の記者たちが、暇つぶしに私(45歳)の研究室へ立ち寄り、年号ゆかりの四方山話をするようになった。そのうちに、翌六十三(1988)年九月の御危篤状況以降、都内に常駐を求められた。そして翌六十四(1989)年一月七日の崩御による改元の際、NHKの特番(テレビの総合・教育・国際、ラジオの第一・第二・FMすべて同時放送)で元号の来歴や意義を説明し、また各紙誌にコメントや論考が掲載されることになったのである。
 それから三十年余り経って、今年(2019)、「平成」から「令和」への改元が実現した。これは既に平成二十二(2010)年七月、天皇陛下(76歳)が御所内の参与会議で「譲位」の意向を暗示されても、終身在位を定める皇室典範の改正は難しく、数年を経過してしまった。
 しかし、同二十八(2016)年八月「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」が放映され、国民の大多数が理解と共感を示した。すると、政府は有識者会議を設け、そこで私などの提案した「皇室典範特例法」が国会で制定され、本年四月三十日の「退位」を可能にした。
 その間、政府は同二十九(2017)年六月「特例法」が成立するころから改元の準備を進め、ようやく今年、高齢(85歳)を理由とする「退位」に伴って、五月一日に皇位と一体の剣璽などを継承される新天皇(59歳)の践祚に先立ち、四月一日に新元号が決定され公布されることになった。そのため、今回は早くより当日に備えての取材が、国内だけでなく海外メディアからも数多くあり、当日は到底一人で対応しえない状況になった。
 そこで、二人の学友に協力を求めた。一人は昨春から本学法学部の准教授(日本法制史担当)に採用された久禮旦雄氏、もう一人は今春から京都府教育委員会に異動した吉野健一氏である。久禮氏は私が十数年前から出講していた同志社大学大学院の受講生(のち京大法学研究科において学位取得)であり、また吉野氏は私が本学の日本文化研究所で開いていた「後桜町女帝宸記解読会」に京大の文学研究科時代から参加していた近世史の専門家である。
 この二人には、すでに平成二十六(2014)年出版の編著『日本年号史大辞典』(雄山閣)を全面的に手伝ってもらった。また昨年春刊行された『元号−年号から読み解く日本史』(文春新書)を共同執筆した仲である[さらに最近、共著『元号読本』(創元社)も公刊した]。それゆえ、四月一日の新元号発表をはじめ、同三十日の「退位礼正殿の儀」も、五月一日の「剣璽等承継の儀」も、翌二日の番組なども、NHKと民放テレビ各局を三人で分担(昼と夜で局を交替)して解説にあたることが、 辛うじて出来たのである。
 その四月一日、新元号の出典(文字案の典拠)は、従来どおり漢籍かもしれないが、そろそろ国書かもしれないと予測して、三人とも重要な漢籍と国書の注釈書などを局に持ち込んだ。実は前回も国立国文学研究資料館の市古貞次博士が考案者の一人だったことは政府関係者も認めている。また当時、大阪市立大学の小島憲之博士(日本漢文学研究者)が、かつて東大教授の坂本太郎博士から「将来の年号文字は国書から採ってよいのではないか」と言われ、それならば『日本書紀』の十七条憲法か嵯峨天皇の漢詩文あたりから出せると答えた、というインタビュー記事を読んでいた[読売新聞政治部編『平成改元』平成元(1989)年 行研出版局刊]。
 そのため私は、国書ならば『日本書紀』『古事記』『律令』『風土記』『懐風藻』『経国集』『文華秀麗集』あたりかと予測して持参した。ところが、午前十一時半すぎ、菅官房長官が発表した新元号は「令和」、その出典は何と『万葉集』であった。実は前掲『平成改元』の中に、大正大学名誉教授の斎藤忠教授が「日本にも長い歴史があるのだから、万葉集や古事記からとってもよいのではないか」と語っておられたと見えるので、『万葉集』も想定し準備すべきところ、その可能性は低いと思い込んでいた不明を恥じるほかない。
 幸いNHKのスタジオに助手の後藤真生氏(本学修士)がいて研究所に連絡をとり、直ちにデータを取り寄せてくれたから、 何とか解説に役立てることができた。
 ともあれ、既に千三百年以上も続いており、今や世界中で日本にしかない漢字文化の元号(年号)文字が、初めて国書の中でも特に『万葉集』から採られた意義は、極めて大きい。しかも、それは、天平二(730)年初春、九州の大宰府で帥(そち)(長官)の大伴旅人が、梅花を賞(め)でる宴会を催し、そこに集う筑前守山上憶良など三十二人の詠んだ和歌の前に掲げた見事な漢文の序である。
 それを書き下し文で示せば「時に初春の令(よ)き月にして、気淑(よ)く(空気が快く)風和(やわら)ぎ(風が穏やかで)、梅は鏡前の粉を披(ひら)き(鏡前の白粉(おしろい)のように美しく咲き)、菊は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す(香袋のように香っている)…」という情景描写の中から、「令」と「和」の二文字を選び出し、それを新元号として採択したのである。まことにお見事と感服してやまない。
 なお、この「令和」について、同席した高名な学者は「和せしむ」とも読めると評されたが、私は即座に「令を令息とか令嬢・令室などというように、好いとか美しいという意味に使われているから、良い和やかな日本への希望を表すにふさわしい元号だと思う」と述べた。

(左)後藤真生氏と(右)久禮旦雄氏

 さらに、これを考案されたと認められる中西進博士(文化勲章受章者)は、まもなく「令和の令は単に美しいというより整った麗しさを意味するから、麗しい調和のとれた平和な日本をめざしてほしい」と言われる。これを最終的に強く推したと伝えられる安倍晋三首相も「令和には、人々が美しく心を寄せ合うなかで文化が生まれ育つという意味が込められている」と語っている。
 そのせいか、新元号「令和」は、老若男女を問わず多くの日本人に、かなり好感をもって受け容れられた。海外でも外務省のbeautiful harmonyという英訳が広まり、好評だと伝えられる。
 このように明るく晴れやかな雰囲気が盛り上がったのも、基づくところ平成の天皇が約二百年ぶりの「譲位」を決心されたからだ、ということを忘れてはならないであろう。

令和元(2019)年七月一日記