「恩師随想」欄に何か書くように要請を受けた。以前、ちょうど二十年前にも執筆を依頼されたことがあった。現在は外国語学部英語学科の所属であるが、当時は一般教養の語学の教員という立場で、ゼミも担当しておらず、親しく学生と接する機会も少なかったので、自分が恩師と呼ばれるようになるとは毫も思わなかった。それで私の恩師のことを書くのだと勘違いしてお引き受けしたら、私自身のことを書いて下さいと云われて困ってしまったのを憶えている。
結局私自身のことではなく、私の「産大の恩師」、福田恆存先生の思い出を書かせてもらうことにした。その時点で、奉職(昭和五十五年)してから十八年が経っていたが、実は産大とのお付き合いはもう少し古く、昭和五十一年(1976)から始まっていた。先生の「英文学Ⅰ」の講義に出席するために、聴講生として月一回産大に通っていたのだった。
今は亡き福田恆存氏は文芸評論家、翻訳家、劇作家、演出家として高名な方で、月一回二時間の集中講義の為に大磯から産大に来ておられた。当時、他大学の大学院生であったが、先生に私淑していた私は、産大には聴講料も払わず、先生の個人的な許可を得て授業に出させていただいていた。いわゆる「てんぷら学生」(にせ学生)であった。その数年後に産大に奉職するとは、夢にも思わなかったし、不思議な縁を感じたものだ。
それからさらに四十年の月日が経とうとし、考えればあと一年少々で退職を迎える齢になってしまった。外国語学部に所属するようになり、恐れ多いことに福田先生が担当されていた「英文学Ⅰ」の講義を私が担当するようになっていた。この原稿を書いている今そのことに思い至ったのである。何とも迂闊なことである。先生のように深遠な講義は到底できないが、英文学の名作とされている作品を紹介しつつ、文芸物の映画鑑賞などして何とかその責を果たしている。
この四十年を振り返って、産大のためにどれほどの貢献ができたかを思うと、冷や汗が出てきそうである。ただクラブの顧問、部長として、前半は文化団体連盟の産大ツーリスト部、そして後半から現在にいたるまでアメリカンフットボール部のために、微力ではあるが尽力してきたつもりである。
アメリカンフットボールは私の最も愛するスポーツであり、アメリカではfinal sport (究極のスポーツ)と呼ばれ、絶大なる人気を誇っている。それが日本大学のアメリカンフットボール部が引き起こした不祥事で毎日マスコミを賑わしているのは、辛いことであり、残念でならない。
我がアメリカンフットボール部はかつて一部リーグに所属していたこともあったが、十数年二部暮らしが続いている。私の目の黒いうちに一部昇格を果たしてくれるように選手にお願いしているが、その期限もあと二年足らずになってしまった。産大を辞める一番の心残りはこのことである。
もう一つ心残りがある。我が子のように接してきた学生たちと別れなければならないことである。この間までは第
二のお父さんと呼ばれてきたが、今では「しげじい」となり、気が付けばそろそろ孫くらい齢が離れてきてしまっている自分がいる。若い学生諸君、特に女子の学生たちは元気で、頼もしく、彼らをみていると、少子化の日本を憂う声もあるが、大丈夫のような気がしてくる。
余生を送るにあたって、最近琵琶湖のほとりに隠居所をかまえた。暖かい土地に住みたいという思いもあったが、この地を終の棲家に定めた。晩年の松尾芭蕉がこよなく滋賀を愛し、大津にしばらく遊んだように、私もそれに倣うことにしたのだ。
産大で過ごさせていただいた四十年間は振り返ってみて、至福の年月であった。感謝の念をもって筆を擱きたい。