京都産業大学同窓会

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見せかけのナッシュ・プレイヤー

(※2018年9月発行の同窓会報の内容を転載しています)
菅原 宏太 教授
経済学部 地方財政論

 この春、菅原ゼミ15期生が、演習Ⅰの学外実習として愛媛県今治市役所を訪問した。市職員さんを前に今治市の現状と政策課題をプレゼンし、政策立案・遂行についての現場の声を伺った。菅原ゼミ史上初の1泊2日の学外フィールドワーク。賞賛すべきは、市役所とのアポイントメント、プレゼン資料作成、旅程企画のほとんどすべてをゼミ生達自身でこなしたことである。しかしながら、15年目にして初ということに、私は後悔にも似た複雑な念を抱いている。
 今まで私は、ゼミは「水物」だと思ってきた。ゼミ合宿や神山祭模擬店などに挑戦した世代もあれば、一度のゼミコンパもなかった世代もあった。だが、これらはすべて、集まったゼミ生のキャラクターによるものだ。20歳過ぎにもなった人間の性格や行動は私にとって“所与”なのだから、私がゼミ生に働きかけたところでどうなるものでもない。演習以外のゼミ活動はゼミ生の自主性に任せるのが最善であり、やる気を見せればサポートしよう。
 ゲーム理論の代表的なフレームワークであるナッシュ・ゲームにおいては、ゲームの主体(プレイヤー)はお互いの意思決定を“所与”だと考えている。例えば、じゃんけんの相手がグー、チョキ、パーのいずれを選ぶかについて自分は影響を与えることができないといった具合である。つまり、私のゼミへの関わり方はナッシュ・プレイヤー的で、何らかの活動を押し付けることはしなかった。
 ところが最近、非常にショッキングな事態に直面した。ある期のゼミ生から、「先生にもっと積極的に関与してもらいたかった」と涙ながらに訴えられたのである。どこでフレームワークの適用を誤ったのか、そもそも最初から誤っていたのか。私は返す言葉に詰まってしまった。
 ナッシュ・ゲームの対となるのはシュタッケルベルグ・ゲームである。このフレームワークの重要な点は、シュタッケルベルグ・リーダーが己の意思決定に対するフォロワーの反応を予見できることである。現実への示唆として、リーダーがフォロワーの反応を「知ろうと努める」かどうかが重要である。知らなければ、その人は単なるナッシュ・プレイヤーだが、知ることができればシュタッケルベルグ・リーダーたれるのだ。

学外フィールドワーク(今治市役所にて)

 ゼミの教員と学生。それは自ずとリーダー=フォロワーの関係になる。しかしながら、教員は初めから学生の反応を予見できるわけではなく「知ろうと努める」必要がある。それを怠れば、奇妙な「見せかけのナッシュ・ゲーム」状態に陥ってしまう。フォロワーを慮ったつもりでいても、「知ろうとしない」リーダーの意思決定がもたらす結末は、フォロワーの不満、無気力、そして涙である。
 上司と部下、先輩と後輩、経験者と未経験者。様々な人間関係において、自分がリーダーたるべき局面が散見する。それらにおいても「見せかけのナッシュ・プレイヤー」になってしまっていないだろうか? 本稿の執筆依頼をよい機会とばかりに、自戒の弁を綴ってみることにした。