仕事ではお客様の声を聴きくことを一番大事にしています。
――靴磨きを仕事にしようと思ったきっかけは何だったのですか?
私の父が料理人で、父が家で包丁を研ぐ姿は、家庭の一風景でした。私は幼いころから、父が自分の道具を手入れするときの所作を、素敵だなと感じていたように思います。小学2年生で野球を始めると、道具のメンテナンスのほか、ランドセルも磨いていました。中学時代に所属した野球チームの指導者に元プロ野球選手の方がいて、その方にグローブやスパイクのメンテナンス方法を教えてもらいました。これが、革磨きにのめりこむきっかけになったかもしれません。野球は高校卒業まで続けたのですが、僕の道具は常にピカピカ(笑)誰も僕のグローブには触りませんでしたね。
高校時代に本格的な革靴に触れるようになり、そのころから家中の靴を片端から磨いて回りました。使っていたのはまだ野球用のメンテナンス用品でしたが、時間さえあれば、革を磨くことに熱中していたと思います。大学に入るころまでは、自己満足で靴や革製品を磨いていましたが、あるとき両親の靴を磨いたところ、二人の喜びが想像以上で驚いたことがあります。と同時に、この時初めて、靴磨きが人に喜ばれるサービスなのだと気づいたのです。その後は家族の靴から親戚の靴、さらには親戚の知人の靴も磨かせてもらい、徐々に靴磨きの流れや仕上がりをつかんでいきました。
――大学生になると京都市内の路上で靴磨きを始めた理由は?
靴磨きの流れや仕上がり具合はつかめましたが、当時はまだ、どんなお客さんに来てほしいか、ターゲットも定まっていませんでした。そこでまず、不特定多数に出会えるところでチャレンジしようと考えたのです。全員がお客さんといえば、路上ですね。初出店は京都タワーの下あたり。決意したこととはいえ、最初はとても怖かったのを覚えています。京都駅付近は2か月ほどで切り上げ、その後は祇園四条、四条烏丸へと場所を移しながら出店を続けました。京都で路上靴磨きがあったのは3、40年くらい前までだそうで、通りがかる方からは、「懐かしい」というお声をたくさんいただきました。
――なぜ京都産業大学を選んだのですか?
入学前にいろんな大学を下見しましたが、京都産業大学の自然豊かなロケーションが気に入りました。広いキャンパス内ではサルやシカにでくわすこともあり、街中では見られない光景に出会えるのが新鮮でした。通学時にバスや電車の車窓から、日々移り変わる京都の景色を見ていられることも、僕の中では大きな喜びでした。
学生時代はサークルなどに入っていなかったのですが、友人には恵まれたと思います。進学前に塾で出会った仲間が、偶然にも京都産業大学にたくさん進学していました。もともと話すのはあまり得意ではありませんでしたが、路上で靴磨きをしているうちに鍛えられたのでしょうか。在学中は彼らから友人の輪が広がりました。いまも彼らとは親しくしていますし、在学中に他大学の人との交流も多く経験できたと思います。
――寺島さんにとって、大学はどんなところでしたか?
僕にとって大学は、親から与えてもらい、守られた場所に所属できる最後の機会であり場所でした。そのため大学の4年間は、将来自分がどういうことをしていきたいかを探すことに使おうと決めていました。野球部に入ろうかとも思いましたが、やはり一番、没頭できるのは靴磨き。だとしたらそれは自分の肌に合っているんじゃないかと気づいたため、かなり早い段階で靴磨きに注力するようになりました。大学では勉強して、終わったら靴磨きと、きっちり切り替えていたと思います。
――現在は富裕層向けのサービスをされていますが、どのように展開されているのですか?
――今後はどんなことに取り組んでいきたいですか?
最近は、東京に行く機会も増え、お客様から勉強させて頂くことも、更に増えて参りました。いまは靴磨きのみならず、「革を磨く」ところまで視野を広げています。将来的にはこのサービスを海外まで持っていきたいと思っています。また靴磨きを今後も残っていく職業にするためには、お客様への価値向上と同時に、職業そのものの価値を上げる活動も欠かせません。ついてきてくれる従業員のためにも、「この仕事でこんな給料もらえるんや!」と言える会社を目指したいと思います。
――最後に、同窓生の皆さんへメッセージをお願いします。
僕は京都産業大学卒で靴磨き職人になった唯一の卒業生だそうですが、仕事とは思いもかけないところに転がっているものだと思います。やりたいことを仕事にできたのは嬉しいことですが、何かを始めるタイミングに、早い遅いはないのではないでしょうか。もちろん家族ができるなど、自分や自分を取り巻く状況も変化しますが、せっかくならチャレンジする人生を選びたいですね。